中世時代の演劇から、クイーンたちが登場するル・ポールのテレビ番組まで – 芸術的なドラァグの世界について知っておくべき9つのこと
今から10年以上前、『ル・ポールのドラァグ・レース』というリアリティ番組がスタートしました。この番組のおかげで、テレビの視聴者はドラァグ界の裏側に触れることができただけでなく、最も有名なパフォーマーたちも自分を幅広くアピールするチャンスに恵まれました。しかし実際には、ドラァグ文化のほんの一部分が紹介されたに過ぎません。放送時間が限られているため、ドラァグ文化の描かれ方やさまざまなストーリー、クローズアップされた人物像は表面的に紹介されただけなのです。この番組でドラァグの世界を初めて知った多くの方は、物足りなさを感じたかもしれません。そこで今回は『ドラァグ・レース』のスーパースターであるSasha Velourが登場してくれました。ドラァグは一種のアートですが、彼女はその歴史に非常に詳しい人物です。さらにはアーティスティックなドラァグを自ら披露することにより、番組自体の知名度を一気に高めた画期的な「クイーン」だと言えるでしょう。Service95読者の皆さん、まばゆいドラァグの世界にようこそ。そこには知られざる世界が広がっています。 1. 世界で最も有名なドラァグ・パフォーマーの多くは女性で、「ゲイの男性」だけではありません。でも私たちも、パフォーマンスはもちろん得意! 「ドラァグ・キング」、「ドラァグ・クイーン」、あるいは「クィア(性的な偏見にとらわれない)」パフォーマンスをするアーティストであれ、女性は私たちが関わっているアートに非常に大きな貢献をしてきました。これは現在も同じです。たとえばペパーミントは『ドラァグ・レース』に初登場するだいぶ前から、ライブで歌を披露するトランスジェンダーの「ディーバ(女神)」として、世界各地でツアーを行っていました。一方、ランドン・サイダーは、一般の男性よりもはるかに男らしいドラァグ・キングのイメージで知られています。彼女はドラァグ・アーティストのコンビである、ザ・ブーレ・ブラザーズがプロデュースしたテレビ番組、『ドラァグュラ(ドラキュラをモチーフにしたシリーズ)』に登場した後、世界中でファンを獲得しました。ドラァグ・アートの世界で活躍している女性は、他にもたくさんいます。「ドラァグ・バーレスク(文学作品等をコミカルにアレンジしたショー)」を世界中で演じているカップルとしては、Kitten N’ Louが有名です。二人は本当のレズビアンであり、アイコン的な存在になっています。さらにはすべてのドラァグ・クイーンから愛されているサシャ・コルビー(彼女は私のテレビ番組『ナイトガウンズ』)に出演しています)、「完璧な女性」のイメージを一変させたニューヨークのレジェンド、アマンダ・ルポールなどがいます。ドラァグ文化における女性の影響は、なんと1960年代にまでさかのぼります!ジャズシンガーであり、ドラァグ・ショーの主催者、ゲイバーの用心棒も務めていたストーミー・デラヴェリーは、「ストーンウォールの反乱」(警察の摘発によって起きた事件)の当事者にもなりました。 2. ドラァグはテレビ番組の『ドラァグ・レース』が始まるはるか前から、世界中で大人気 ドラァグの文化には長い歴史があります。たとえばキューピーは、カプチーネという名前でも知られるドラァグ・クイーンでした。彼女は1950年代や60年代、まだアパルトヘイトが残っていた頃に南アフリカのケープタウンで活動。最も人気のあるドラァグ・ショー(別名「モフィー」コンサート)を主催していました。昼間はケープタウンの第6区という地域でヘアサロンを経営し、夜はショーをオーガナイズ。こうして白人以外の人々が、クィアなライフスタイルを楽しむためのガイド役を務めていたのです。日本では美輪明宏さんの存在が挙げられます。美輪さんは1957年にセンセーショナルな歌『メケ・メケ』で有名になり、その後、東京の渋谷で「美輪明宏の世界」というショーを毎月開催。司会と主演を2000年代まで続けていました。ドラァグのパイオニアたちは、東側諸国にも存在します。モスクワでは「セントラル・ステーション・ナイトクラブ(ロシア語でTsentralnaya Stantsya)」と呼ばれるドラァグ・ショーが、インターネットが普及するだいぶ前から始まっていました。このショーは暴力を伴うさまざまな嫌がらせや、国家による規制を受けてきたにもかかわらず、今日も続いています。 3. トランスジェンダーの活動は、今でもドラァグ文化の大切な要素 ドラァグの世界で市民活動を行っている人たちは、生活に困っている人たちへの義援金を集める目的で、昔からドラァグ・ショーを開催してきました。たとえば1950年代のニューヨークで活躍したリー・ブリュースターは、「マタシン協会(アメリカで初めて誕生したゲイの活動家グループの一つ)」を支援しようと、個人的にドラァグ・ショーを催していました。しかし同協会の中にはトランスジェンダーを嫌う人々もいたため、やがてショーは中止されてしまいます。するとブリュースターは協会を脱退して、ウィッグ(かつら)を販売するブティックを経営し、70年代には「ストリート・トランスヴェスタイト・アクション・レボリューショナリーズ」という組織に参加。トランスジェンダーの活動家であるマーシャ・P・ジョンソンや、シルヴィア・リヴェラ(この人たちは自ら「ドラァグ・クイーン」と名乗っていました)と共に、クィアやトランスの人々が住宅を借りたり、法的権利を確保できるように活動を展開しました。パリでは、トランスジェンダー系ドラァグ・キャバレーのスターであるコクシネルが、1994年に「Devenir Femme」という組織を設立。トランスジェンダーの人々をサポートしています。アメリカでは「インペリアル・コート・システム」という組織や、「ミス・コンチネンタル」などのドラァグ向けコンテストが、クィアな人たちにコミュニティとさまざまなサポートを長年にわたって提供してきました。 4. ドラァグの世界では、経済的な不安と不公平な待遇がかなり深刻 私が主催しているショーではそのようなことはありませんが、ほとんどのショーでは同じパフォーマンスをしても、出演者のギャラがまちまちです。多くのアーティストは、安定した契約を結んで生活費を稼ぐために『ドラァグ・レース』に出演しなければならないと考えているほどです。ただし、テレビ番組に出るだけで成功や安定が保証されるわけではありません。実際には番組のオーディションを受けるのも、出演に向けて準備をするにも、かなりのお金がかかります。実際には、アーティストが何万ドルもの借金を背負うケースも起きているのです。 5. ドラァグは新たな文化ではありません。その起源は何世紀も前にさかのぼります そもそも演劇は、宗教的な伝統行事の一部として始まりました。これは世界共通です。中世時代のヨーロッパでは、宗教的なカーニバルが、あらゆる性別の人々が服を自由に取り替えてショーを行う場にもなっていました。ちなみにドラァグ(性別を超えた服装)の文化は、演劇に参加するのを禁止されていた女性たちが、必要に迫られて考え出したのだろうと解釈されるケースがしばしばあります。でも、これは誤解であり事実と全く異なっています。一般的な常識や道徳を重んじる「古い社会」では、男性が女性の役割を演じていたために、女性が舞台に上がるのはタブーとされていたのです。わかりやすいのは日本の例でしょう。日本では1603年頃、寺社の巫女である「出雲阿国(いずものおくに)」が、男装をして独特な歌と踊りを披露。これが、歌舞伎という伝統芸能が生まれるきっかけとなりました。ところが、それから100年も経たないうちに、女性は「伝統やモラルに反する」という理由で、歌舞伎に参加することを全面的に制限されるようになったのです。 6. ドラァグを披露しただけで逮捕されたり、命を奪われた人も ドラァグのパフォーマーはさまざまな偏見や差別、圧力を跳ね返さなければなりません。それと同時に安全を確保した上で、自分たちが最も必要とされるシチュエーションで、喜びや美しさを表現しなければならないケースもしばしばあります。ドラァグ・パフォーマーが逮捕された最初の事例としては、ヴィクトリア朝時代(19世紀)のイギリスで起きた事件が挙げられるでしょう。当時、ロンドンではステラとファニーというカップルがドレスを着て、「モリー・ハウシズ(クィアが安全に集まれる場所)」に出入りしていました。ところが二人は「ソドミー行為の陰謀」と呼ばれる大規模な刑事裁判(同性愛の人などが訴えられた事件)に巻き込まれました。最終的には無罪になりましたが、この事件は性的マイノリティーの人々が迫害された最初の出来事として、今も記録に残っています。アメリカでは、ウィリアム・ドーシー・スワンにまつわる事件が、最近ようやく明らかになってきました。彼女は「ドラァグ・クイーン」を自称しており、1900年代初頭にはワシントンDCで、有色人種のクィアたちのために豪華な舞踏会を開いていました。彼女はこれが原因で「売春宿を経営した」と濡れ衣を着せられ、10ヶ月の懲役を言い渡されたのです。スワンは当時のアメリカ大統領、グローヴァー・クリーヴランドに恩赦を求める手紙を書き、クィアな人々が無実の罪に問われることに抗議した最初の人物となります。しかし大統領は願いを聞き届けませんでした。私たちの世界では、悲しい出来事が数多く起きてきました。たとえばマーシャ・P・ジョンソンは、ニューヨークにおける最も偉大なドラァグの一人であり、トランスジェンダーを支援している活動家でした。しかし1992年に、何者かによって殺されてしまいます。この事件は今も未解決のままです。 7. 最新テクノロジーを取り入れたリップシンキング(口パク)は、ドラァグならではのアイデア リップシンキング(口パク)を最初に披露したドラァグのパフォーマーたちは、「レコード・アクツ」と呼ばれていました。このスタイルは1960年代、ジュークボックスのある労働者階級向けのバーで誕生しています。しかし、すでに「歌まね」のプロとして活動していた女性の中には、かなり批判的な態度を取る人もいました。きっと新しい才能の持ち主が登場してくるのを警戒していたのでしょう。口パクという方法が普及した結果、歌を歌うためのレッスンを受けていない人もショーを行えるようになり、ドラァグの芸術性はさらに高まりました。「良質なアート」とは、ディテールを完璧に追求することでありません。むしろパフォーマンス全体を通して、どう効果的にアピールするかがポイントなのです。口パクの普及は、この事実を強く実感させる出来事となりました。また口パクはドラァグ界が新しいテクノロジーを簡単に、しかもクリエイティブな方法で使ってきた歴史も反映しています。現に私は「スモーク・アンド・ミラーズ」というショーで、プロジェクションマッピングを取り入れた、実験的なパフォーマンスをしています。また最近では新型コロナウイルスの世界的な蔓延のため、ストリーミング技術を使ったデジタルなドラァグなども行われるようになりました。新しいテクノロジーを使いこなそうとする姿勢は、ドラァグ・アートで今も重要な要素になっているのです。 8. 「リヴィール(コスチュームの早替わり)」は、昔から披露されてきました アイルランドのパフォーマーであるデュ・ヴァルは、1800年代半ばにイギリス、アフリカ、インドでショーを披露するなど、世界各国でツアーを行った最初のドラァグ・アーティストの一人です。このショーには、洗濯をするお手伝いさん、社交界に初めてデビューする魅力的な女性、横暴な貴族、不器用な教授など、異なる性別のキャラクターに素早くなり変わるシーンも含まれていました。1920年代には、テキサス生まれでサーカスの空中ブランコ乗りでもあったバルベットが、ウィッグを取るだけで男性と女性を演じ分けるショーを披露し、パリの観客を沸かせています。1920年代から30年代にかけて京劇で最も有名になったスター、梅蘭芳(メイ・ランファン)もリヴィールで有名になりました。彼女は巨大な髪飾り、極端に長い袖、華麗なマントといったファンタジー感あふれる衣装を身につけることで知られていました。しかも美しいファルセットで歌を聞かせながら、これらの衣装を一瞬にして脱ぎ去り、ワイングラスを足で受け止めるような曲芸を演じていたのです。 9. 大切なのはあなたの外見や性別ではなく、あなたの行動。それがドラァグのポリシー 生まれや経歴は関係ない。人間は想像力、行動、芸術、そして他人との接し方によって、自分の人生と運命を決められる。これはドラァグが発信している、最も大切なメッセージです。人はだれでも違う自分に変身したり、男性と女性の中間的な存在になりたいという願望を密かに持っています。ドラァグとはその本質的な部分にスポットライトを当てながら、差別に抵抗していくためのアートなのです。 ドラァグ文化を理解するために。Sasha Velour がおすすめするエクスペリエンス
- YouTubeの作品 – 『フェイシズ・オブ・ドラァグ』(2021年)
- ドキュメンタリー映画 – 『ザ・クイーン』(1968年)
- テレビ番組 – 『WE’RE HERE ~クイーンが街にやって来る!~』(2020年)
- 雑誌 – 『Velour ザ・ドラァグ・マガジン』 1~3号
- ナイトクラブ – ザ・レモン・ラブ (チリ、サンチアゴ)
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